【本地新田村のお隣りさん】

挙母の町に背を向け、小坂を通り抜けると、 破れ提灯が風もないのに、ガサガサ揺れて いる墓地があり、自然生えの雑木が覆い被さる ように群がる淋しい沿道は、大坂を下りき るまで続きます。
衣ヶ原から微かに傾斜する 道は、本地新田地内では新道と呼ばれて、尾三 バスが定期に走る村で、一番広い公道でした。
当時、尾三バスはガソリン車と木炭車が交互に 運行されていて、今度は木炭車が来るという のが、バスを見なくてもわかりまし た。
なぜなら、地面に耳をあてがうと他の それよりも、大きな振動が伝わってくるから… 名古屋からの木炭バスはだらだら坂の新道を、 まるで深いため息をつくように、ゆっくり 登っていきます。
早くから木炭バスと 確かめていた子供たちは、バスの後ろに 突き出たバンパーに難なく飛び乗り、坂の 上までの無賃乗車?を楽しんでいました。
たまたま、地面に顔を当てたままでバスの 乗客になり、女の車掌さんが笑いながら、 やさしくほっぺの砂を払ってくれるという ハッピーな出来事にあいました。
当時、憧れの的だった女の車掌さんの ハンカチはいい匂いがして、いつまでも ドキドキした事を覚えています。
道路管理が十分でなかったので、雨降りの後はうわさに違わぬ、ひどいぬかるみでトラ ックなどがよく立ち往生しました。
手のあいた近所の人が呼び合って、スリップするタイ ヤが跳ね飛ばす泥を、頭からかぶりながら車の後押しをして、お礼に二〜三銭貰っていま した。
新道沿いの右側に立派な石垣を積み上げた家は鎌サで、息子さんは競馬の騎手という珍 しい職業の人でした。
道の左側は文一ッサの家があり、にわとり 500〜600羽を飼っていた鶏舎が並んで いて、遊びに行くと産みたての卵をくれました。
鶏舎の横に、魚のアラの入ったトロ箱が何段にも 積まれて置いてあり、それを煮て米ぬかなどと 混ぜたものが、配合飼料のなかった頃の餌でした。
今でもこの風景を思い出す時、あの臭いも 蘇ってきます。
文一ッサの広い 庭内には、加治屋さんがあって 自転車の古部品で、補魚のタタキを造ってもらい、 嬉しくていつまでも大事に持っていました。
その西は牛車で運送の仕事をしていた、元気で 働き者のけんぞうサ
その脇の畷手は割れ目池へ 通じていて、泳ぎや釣りに行く子供たちの姿が 絶えませんでした。
宮口村へ延びる東西の道と交叉する地点に、 馬を飼っていたかなサのタバコ屋があり、 店前がバス停でした。
南隣りの重サは泥鰌屋で、雨が降ると田んぼに ヤナを仕掛け、今はもう皆無の天然ドジョウを 獲って焼いていたので、香ばしい臭いがあたりに 漂っていました。
交叉点の西には農業会(現JA)があり、 供出米を保管する倉庫が軒を並べていて、村 中の経済を一手を扱う金融機関でもありました。
いつも赤いランプが点いてそれとわかる駐在所には、近づく人を圧する大きなオートバ イが置いてあって、物珍しさによく見にいったものです。
新道と平行して流れる用水を挟んで、にわとり小屋を改造した作業場があり、サトウノ キを絞って砂糖を作っていたのは慶サです。
農家の米作りの合間に作られたサトウノキは 大半ここへ持ち込まれていました。
要一ッサは色んな生活用品が揃っている 便利な雑貨屋さんで、「あっあれがない!」 と慌てて買いに走ったものでした。
この周辺には(によ場)(田の神)(古城) (郷倉)…… 今はもう跡形もないけれど懐かしい古い名の 場所が集中していました。
(北林)(北田)などは方角的に、明らかに 本地村から見てつけた地名も残っており、 新田が本地から独立したことを語っています。
交叉点から宮口村への道に沿っての家は、 木炭トラックを持って運送業を営むえッサ
手動でフイゴをまわして火を起こし、薪を 燃やしたガスでエンジンを動かすというまるで 映画のワンシーンのような光景も見られました。
金一郎サとの間の狭い道を西へ下ると、 二代目が庄屋さんを務められた源七ッサ
源七という名は代々襲名され、今は七代目に なるとのこと。
はるサ・角サ・こういッサなど家が続き、 西裏に13人の子沢山は鍾吉ッサ
この家のお爺さんは当時の文化人でいらした 弧水さんで、今も如来寺の境内には 【心から みている風の 柳かな】 の句碑が残っています。
公会堂の裏手には豆腐屋もありました。
火の見やぐらの下、赤いポストの家は坦さん
郵便物や切手の代行をし、学校も近いこ ともあって文房具を取り扱う店でもありました。
鉛筆一本、消しゴム一個を小さくなるま で大切に使い切っていた子供たちには、ガラスケースに入ったピカピカな分度器・コンパ スは宝物に思えたことでしょう。

menu | next