地場産業 みがき砂

「採掘場なんて今はあとかたも残っていないけど、 本当にみがき砂を掘っていたの?」
「宮口神社から貞宝にかけて、採れたみがき砂は 評判がよくて、掘れば掘るだけ飛ぶように売れた そうだから、日に日をついで掘っていたと思うよ」

「評判がいいって その砂は何に使われていたの?」

「あのな 精米機という文明の利器がなかったころは のう、玄米は水車にのんびり搗いてもらっていて、 どこの村にも、水車を管理する車屋という職業が あったぞん。
家では台ガラを使い石臼で搗いたり、一升ビンに 入れて棒でトントン搗くなど、気の長い手間な作業 をしていたけど、その精米にする時に、玄米一升に つき一合ぐらいの割りで混ぜるのがみがき砂だった。
ここの砂の粒子が精米に最適で、使用後の残砂も 少ないと折り紙がつけられて、古くは明治の頃から 掘られておったそうだ。
面白い話しがあってね。
掘り始めのころは、 黒い砂ばかりが出てきたそうだ。
困まり果てて、あるお不動さまにお伺いをたてると、 もう少し掘り進むと、必ずいい砂にあたると御告げ があったそうだ。
不思議にその後、白い砂になったそうだげな」

「もちろん機械はないから、人の力で掘ったんだよね」

「砂といっても堅い地質だったらしいから、先を平らにした特注の、ツルハシや 唐クワを使っていたと聞いたが、大変だったろうね。
カンテラを頼りに手探り状態で 掘って行ったと思うよ」

みがき砂の出荷まで

*掘られた砂はモッコで担って地上まで運びました。
地下水を含んだ砂は重く、 さぞ重労働だったと思われます。
後に縦坑道には井戸が掘られ、手巻きウインチ で吊り上げたり、水平坑道にはトロッコを使用して、大量に運び出しましたが、 道具を使った作業は賃金が減ると嫌う人が多かったといいます。
*地上に運ばれた砂は、粘土を貼って平らにならした地面に、15pぐらいの厚さに 広げられ、足入れ(砂の上を縦横にすり足で歩き筋をいれる)して乾燥させます。
乾いた砂をふるいにかけ粒を整えて、俵詰めにします。
屋根のある集積場もありま したが輸送が間に合わず、俵詰めされた砂は大半が野積みでした。
余談です足入れに従事した人は足腰が強く、マラソンランナーとして村対抗の大会に 活躍していたといいます。
*俵詰めの砂は一日20俵(約1t弱)が一〜二往復、馬車で知立や刈谷まで運ばれ その駅を仲介して地方へ送られました。
やがて名鉄挙母線が開通すると、出荷の量は大幅に増大し、毎日15tの専用貨車を 走らせ、西は大阪、兵庫、四国へ、東は東京 千葉へと需要が伸びていきました。
*採掘現場の掘る 担う 運ぶなどの日雇い人夫は殆どが地元の農家の男の人でしたが 乾燥やふるい、俵詰めには女の人も関わっていました。

夢のあとさき

みがき砂の層は火山灰が流れ出し、 水に浸かって堆積したもので、厚さ は6mぐらいでした。
その層を掘っ ていて、偶然にその下の亜炭の層を 見つけ、同時に採掘していきます。
亜炭は大昔大木が倒れ自然炭化した 下等な石炭で、工場のボイラー用の 燃料として昭和二十七〜二十八年ま で使用されていました。
又、かおりんと言われた超微粒の 白土も出土して、上質紙の目つぶし の原料に使用された時期もありました。
戦後も爆発的な売れ行きをしてこの 地方の経済を支えてきたみがき砂で したが精米機の普及にともない衰退 を始め、採掘も廃業に至ります。
文明、化学の発展により、みがき砂も 亜炭も無用の長物となり、その存在 さえも忘れ去られてゆきますが、 今でも貞宝山一帯の地下には自然の まま無尽蔵に埋もれています。
今も古老の語り草になっていますが、 かって宮口神社の横手には清水が湧き出ていて、その水穴にはみがき砂が露頭して いたといわれます。
それはそのまま、みがき砂の埋蔵の膨大さを物語り、 かって貞宝山へ続く道には、幾筋も幾筋も重なりあった轍跡が残っていたといわれ ます。
、 それはそのまま、みがき砂を運ぶ荷車や馬車の重さと、往来の激しさを物語ってい ます。
それはかっての栄華の夢のあとさき。

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