三河地震

「この地震の方がもっと恐かった?」

「ほだなぁ 寝込みを襲われたから、先の地震より 2倍も3倍も強く感じたなぁ。 歳も明け、東南海地震のうわさも忘れかけていた 昭和二十年一月十三日の真夜中3時38分ころ、 ゴウーという地鳴りで目が覚めた。
その途端激しい上下動が始まり、続いてグラ グラと横揺れに変わっていった。
逃げようとして、急いで雨戸を開けようとしたが、 戸はほんの隙間開いただ けで、ビクとも動かない。
揺れに合わせて一枚の戸 を力任せにこじ開け、 家族で外へ飛び出した。
3分ぐらいで揺れが納まったので、ホットと していたら、又グラグラ揺れ出す。
納まっては揺れる、揺れては納まるを3〜7分 間隔で繰り返すもんで、その度に命がちちむ 思いをしたぞん。
余震といっても、じっと立って居れんほど 強かったからね」

「前の地震はすぐ納まったのに……それに夜中なんでしょう?」

「夜の明けるのがそりゃ長かったなぁ。
心細くてこのまま朝がこないんじゃない かと思った。
余震の合間に家に入り、布団を運び出し 安全な場所へ敷いて、お互いに身を寄せ 合って暖をとったけど寒かった。
寝間着一枚の着の身着のままだもんね。
寒さが針のように痛かったのを覚えているよ。
白々と夜が明けてきた時、布団の上は霜で 真っ白だったぞん。
朝になったら、地震は納まると期待して いたのに、回数は少なくなってはきたが かなり強い余震が続き、浄覚寺の土塀が 目の前で土煙を上げて倒れるし、外の土 カメが大きく揺れ汚水がこぼれるし、まさに 大地が揺れに揺れているって感じだったなぁ。
そんな状態が続くもんで、いつ倒れるかも しれない家に入ることもできないので、とりあ えず、地震には安全といわれる竹薮の中に小屋を作り、落ち着くことになった。
竹の柱に杉皮の屋根を葺き、わらで周囲を囲って、出入り口の戸も一本取り付け、床下 にもわらを敷き詰めた応急の小屋が出来た。
この小屋でなんとか雨風を凌ぐことができ、アメリカ軍の空襲と、時折思い出したよう に襲ってくる余震にビクビクしながら8日余りを暮らした」
この三河地震も当時の社会情勢から 詳しい報道はされませんでした。
各専門機関による被害資料も極秘扱いで 公表されることもなく、終戦の混乱に紛れ 失われたものも多いと思われます。
震源地は北緯34.7度・ 東経137.1度の愛知県南部 マグニチュード7.1度。
余震が一ヶ月で有感196回・ 無感718回を記録しています。
死者2306人。
家屋全半壊23776軒・ 非住家全壊9187件。
津波は蒲郡沿岸で1m。
三河地震が規模や範囲に比べて被害が 大きかったのは、東南海地震の余震とも 言われ、37日の短い間に強震ないし 烈震が二度も襲ったこと。
深溝断層(形原―深溝―宮迫の延長9q・ 上下ずれ最大2mの逆断層)などを生じた 震源の浅い直下型のものだったこと。
その断層の周辺に住家が多かったこと。
さらに戦争による極貧の生活に人々は疲 れきっていたこと。
しかも真夜中だったことなど不運な要因が重なりすぎたといわれています。
なお渥美湾の隆起、沈降により生じた断層は、額田郡幸田町を中軸とした深溝断層 宮迫から江原方面に至る横須賀断層、形原から三河湾に延びている海底断層で、 この3断層を合わすと全長28qにも達し、現在その一部が蒲郡市の市指定天然記念物 として保存されています。
余談ですが、当時名古屋港埠頭を中心とした埋立地には、戦力の要となっていた東海 地方の重要航空機産業や各軍需工場が集中していました。
湾に臨む埋立地は二つの大地震をまともに受け、液状化現象による浸水・沈下・建物 の倒壊などは壊滅的な打撃だったといい、日本の敗戦を早めた要因の一つともいわれて います。

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