戦後荒野を開拓した人々

広久手町の豊田市鉄工団地の周辺は、広い道路が縦横に走り、工場が建ち、住宅と商店 が並び、人や車が慌ただしく往来しています。
かってこの一帯が、挙母史に残る開拓地であったことを知るのは僅かな人です。
当時の生々しい体験を語れるのはもっと少数の人になってしまいました。
この地で開拓に従事された老人に、歴史的にはそれほど昔の話ではないのに、『もう遠い 昔のことですが……』と前置きして、綴っていただいた開拓史の一端を、同じ逢妻に住む者 として、しっかり受け止め語り継ぎたいと思います。

【開拓に従事されたある老人の思い出話】

戦争の終わった昭和二十年十二月、我々15人は今の鉄工団地の場所(近くにあった軍 需工場の所有地で、面積およそ15ha、小松と笹の生えた起伏の多い痩せた荒野)へ入 植した。
入植の斡旋や開拓の指導をしてくれたのは、挙母町農業会(現豊田JA)だっ たが、後に国営開拓に移管され、始めのうちは全員共同作業をしていたが、能率が悪いか らと、各自に土地が割り当てられ、ノルマが課せられた開拓だった。
空襲で家を焼かれた入植者は、農業の経験がほと んど無い人ばかりで、重く大きな開墾鍬を振り上 げて、赤土に絡まった笹の根っこを掘り起こし、 土をふるい、また一鍬一鍬赤土に挑む…… そりゃ並大抵の仕事ではなかった。
みんな家族持ちで、旧陸軍の三角兵舎(柱も無く 屋根を伏せただけの三角形の小屋)に住み、水道も 電気もガスも新聞もラジオも無く、もちろん着る物も 食べ物も金も無く、空腹に耐え、寒さに耐えながら の悲惨な生活だった。
切り開いた痩せ地の開拓地に麦を播き、藷をさしても 収穫は全く無かったし、野菜は芽を出すとすぐ立ち 消えてしまった。
米は少ししか配給されず、滅多に口には入らなかった ので『これは喰えるぞ』と聞けば何でも食べた。
藷や大根や団子汁は上等な食べ物で、桑の芽、 タンポポ、野草、タニシ、イナゴなどを手当たり しだいに空き腹に入れ、ひたすら開拓をした。
街道を往く人たちが『お前ら、その内に 野たれ死ぬぞ』と言って嘲笑することもあった。
開拓の成功の秘訣は肥作りだと、身をもって知り、 毎日早朝から大八車を曳いて町へ行き、家々の ごみ箱から、ごみを集めて堆肥作りにも余念がなかった。
名古屋からごみを買うとトラック一杯2000円、じつに高価だった。
町や名古屋まで行って糞尿を汲み取り、肥桶をトラックに積み込んで帰ってくるので、 いつも体じゅうが糞だらけだった。
生活のためには、土方や日雇い人夫に出たが、日当は安く一日僅か10円だった。
10 円では蒸かした藷が3個しか買えないほどの、食糧は物価高のころだった。
夜の寄り合いの議題は、作付けと借り入れ金の話のはずだったが、いつも議題からそれ て、先々の不安や、金が無いという愚痴に変わって夜が更けていった。
それでも四〜五年たつと、少しづつ作物が取れるようになったが、その頃から食糧事情 が好転し始めて、市場へ出す藷も麦も売り値が下がり、生活はいっこうに楽にはならなか った。
いつのまにか開拓に見切りをつけ一人去り、二人去りして6人の仲間が離農した。
そのうち『開拓者も米を作らなけりゃ本物の 百姓にはなれん』という当局の計画と 奨励により、開拓した畑を又、莫大な 金と労力を使い水田に作り変えた。
昭和二十九年、挙母用水が敷設、 高台の開拓地にも灌漑水が 通水され、嬉々として米を 作ったが、水不足やら水漏 れで米はまったく不作だった。
次の年もその次の年も不作に 泣かされ、追い打ちをかけるように、 水は工業用水に使うようになった からと米作り中止のお達しが出た。
以前にも、煙草が良いと言われて 作り、ビール麦が儲かると聞いて 作り、缶詰桃は将来が楽しみと口説 かれて作ってみたがすべてうまく いかなかった。
こうして米作農家という夢は儚く 消え失せ、再び畑に作り変えて、 結局出来たものは米ではなく 開田資金の借金だけだった。
しかし日本の経済は明るさをみせ、景気が 急速に上昇始めていたので、我々も農業の合間に日雇いに出かけ糊口を凌いでいた。
忘れもしない昭和三十四年九月二十六日の夜のことだった。
あの伊勢湾台風が開拓地を襲ったのは…… 前代未聞の嵐だった。
瓦は吹き飛び、天井は落ちて、部屋に滝の雨が流れ込み、弓なり にしなった雨戸を一晩中押さえていた。
床が持ち上がった時は、さすがに家の倒壊を覚悟 した。
長い長い一夜が明け、目に余る惨状が広がっていた。
家々は倒れ、果樹は折れ、作物は甚大な被害を被り、死者や怪我人までが出ていた。
我々は途方にくれ、立ち上がる気力も失せてしまっていた。
年が変わり、まだ台風の傷痕が癒えぬころ、開拓地買収の話が忽然と出てきた。
トヨタ自動車元町工場と鉄工団地建設のためだという。
まさに青天の霹靂だった。
開拓者同志で、将来を考えて何回も何回も会合を開いた。
そして判断に苦しんだ末、坪 1300円の買収に応じて、殆どの人が土地を離れて行った。
やがて 十五年にわたり、心血を注いだ開拓地は近代的重機の前に、畑も、家も、果樹も、 作物も跡形も無く消され、平らな赤土の工業用地に一変してしまった。
各地に移住した開拓者は、もう若くはなく、あんな苦労をするのも御免だったのだろう、 再び農業に着く者はいなかったと聞いた。
そして今じゃ大半の人が、この世から去っていった。

私には夢があった。

まず第一番目は食糧を作り、腹一杯喰うということ。
二番目は国破れても農業は安定していると考え、 土地持ちの百姓になること。
三番目は努力すれば報われるという期待感。
四番目は誰の命令も拘束もないという開放感。
五番目は誰か一人ゆとりがあれば、兄弟が助 かるという使命感。
これらの夢が私を、困難な開拓から支えて くれていたと思う。
だから海軍から復員して、十七才で入植し、 十九才の時、6坪の家を建てた。
壁の下地に渡す(木舞)の竹を石野から 伐り出し、大八車で運び、藁を打ち、縄をない 木舞編みも、壁塗りも、杉皮で屋根を葺いた のもみんな一人で仕上げた。
荒野の地にぼつんと一軒自分の家が建った。
あの時の感動は忘れない。
あの頃、本地や千足の少年が学校帰りに立ち寄って 語り合ったり、幻灯機による幻灯会を楽しんでくれ たっけ…… あの少年たちは今…… あの素朴な楽しみや喜びは今…… 時折訪ねてくれる旧知の人も地理の変わったことに驚きながら、道に迷ったことを 弁解するんですよと老人は寂しく笑っていました。
今は買収を逃れた、小さい土地で家庭菜園をして、そこで採れた真っ赤なトマトや 艶やかな茄子を手に『あの時こんなに育ってくれていたら……』とつぶやき、 足元の土を掴み『ほれ、あの赤土がこんなに黒くてさらさらになって……』と手の ひらの土を広げて見せてくれました。
『 何もかも変わってしまって……』短い呟きのなかに50余年の開拓の歴史の悲喜 交々が秘められているようでした。

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