【宮口一色のお隣りさん】

豊かな鎮守の杜を聖域とする宮口神社が東の 入口に位置して、東側・日向(ひおも) ・ふきつけ・山屋敷と呼ばれる集落をつないで、 一色地内の街道は莇生へ抜けていました。
バスが走る街道と聞けば、相当広い道を想像し ますが、そのバスが乗定員5、6名で今の自動車 に毛が生えたような車だったと、重ねて説明され ると残っている旧道の道幅も納得がゆきます。
木炭車が走ったのはその後に開通した新道です。
おじいさんの源とおやじさんの豊をとり、 源豊サと親しまれていた酒屋さんは、空ビンを 持ってお酒を買いにいくと、酒樽の下についた 木の栓をキュッキュッとひねって、トクトク トクと一升桝や一合桝に注ぎ分け、注文しただけ ビンに入れてくれました。
桝酒の立ち飲みもでき、寒い日には燗もつけて くれたので、ちょいと一杯と暖簾をくぐる男の 人もいて、又、おひまちにも利用したので大人の 溜まり場でもありました。
要サは行者祭りに出店を出す駄菓子屋さんでした。
息子の自転車屋さんと軒を並べる店はかき氷や トコロテンをやっていて、小遣い銭を貰って トコロテンを食べに行くのが楽しみでしたが、 なぜ箸を一本しか出してくれないのか不思議でした。
未だにその答えはわかりません。
その西隣りはみきサの家。
兼近川の上流に村の水車があったのですが、水量が少なくて よく水車が止まってしまうので、米搗きを生業にしていました。
季節に合せて、かしわ餅や団子を作って売っていた、めとくサは「つまらんなあ」が口癖 の饅頭屋さん。
岩サはこんにゃく、とうふ、食用油などを扱う食料店でしたが、高価だった食用油を使 う料理はあまり食べられなくて、天ぷら(といってもさつまいもやゴボウなどのかき揚げ でしたが)はお正月、お祭り、特別な日のご馳走でした。
たまに、何段も積み重ねた四角い竹籠を背負いながら、三河の海で捕れたイワシや赤エ イを行商にくるおじさんがいて、十銭ほどで買い求めたイワシを背開きし、一夜干しした ものは本当に美味しくて忘れられない味でした。
ゆうてんという八百屋もリヤカーを 引いて、みりん漬けの干物やいかの塩辛を商っていましたが、塩辛の味には馴染めません でした。
公会堂稚蚕飼育場でもあり、いろりで温度を上げ蚕の卵を孵化させ、養蚕農家に幼虫 を分けていました。
蚕の餌の桑の葉を保存する地下室もありました。
とみおサじたろうサは竹細工の職人さんで、出来上がったヤナイカケが店の隅に無 造作にころがっていました。
源一ッサは貞宝山のみがき砂を挙母の駅まで運ぶ馬車引きで、最盛期のころは荷車がき しむほどみがき砂を山積みして、何度も往復したことでしょう。
戦後になって名古屋競馬の厩舎に勤めたかんいちッサは、自分の家でも3頭の馬を飼っ ている獣医さん?で、祭りの前夜に総代さんが奉納する献馬をよく借りていました。
競馬 用の馬なので勢いがあり、付人は馬の轡やたづなを持つのがやっとので状態で、境内を走 り廻すのは大変だったようです。
プロに付いて修行した中条勝、加藤影吉という芸人さんもいて、、有志の方が開放して くれた座敷で、料金を払ったか定かではないけれど、浪花節手品を楽しんだこともあり ました。
村役の代理で配り物を持って、各戸をまわり歩く 常サには、冠婚葬祭を行なった家々から、残り物や 燗冷ましの酒のおすそ分けを受けるという特権があり、 何も言わなくても用意しておく家もあったようです。
あるきサと呼ばれていました。
乳屋さんは一面に背ほどの葦が茂っている沼地を 通り抜け、切開いた崖の粗土がむき出した道を奥の 方まで進んだ所で5、6頭の乳牛を飼っていました。
集落からポツンと一軒離れた家だったので電気の 配線も遅く、不自由なランプ生活が長く続いたと いいます。
牛の餌の調達にせっせと草を刈る乳屋さんを あちこちでみかけたものですが、毎朝暗いう ちに乳を絞り、熱による消毒して一合ビンや 五勺ビンに詰めて、宮口から逢妻の隅々まで 手広く配達していました。
病弱だったり、 忙しくてオッパイの出の悪かったお母さんには、 なくてはならない助っ人で、ここの牛乳で大きく なった赤ちゃんもいたことでしょう。
農耕牛の爪切り場もありました。
鳥居形をした 木の枠の中に牛を閉じ込めて、動かない よう綱で足を縛り、専門の鎌で爪を削り やすりをかけるのですが、蹴られないように細心 の気を配る作業だったようです。
急な下り坂の藪下付近は、冬も風がなく暖かで、わんぱく坊主たちの遊び場でした。
莇生から挙母の町へ、自転車で通っていた女学生を待ち伏せ、悪口を言ったり、自転車を 引っ張ったりして、泣かせたものです。
莇生のわんぱく坊主と一度だけ、石を投げ合う大 喧嘩したことがありますが、その時の仕返しだったかもね…… 学校山、消防山、不浄山と呼ばれていた小山は、その名の通り、学生や消防団の訓練場 で、天気のいい日にはオイッチニ、オイッチニの掛け声が、山の向こうまで響いていま した。
学校山はまつたけがとれ、消防山は平らな土地だったので、空いている時は、鋤を つけた牛を仕込むのに、最適な所でした。
不浄山はお産をした時に出る汚れものなどを、人知れず埋めたり燃やしたりする場所で 自宅出産のころには必要な場所でした。
これらの小山の峠を越えると、遠く刈谷の向こうの 海が見えたとして、その名が残る汐見の丘があり ました。
古老が言い伝える、公会堂前(野島の辺り)で刈谷 方面の花火を、むしろを敷いて眺めたという話や、 ヒラコ(衣台高校の辺り)から冬の晴れ渡った日には 白く雪を冠った富士の山が、まるでおちょぼのように、 空間に浮かんでいたという話は、いつまで信じて もらえるでしょうか? 三好と境を接する西の山と呼ばれていた一帯は、 野ウサギ狩りの場でもあり、山一面に大きい網を 張り、大人も子供も竹や棒を持って、辺りの草むらを 叩いたり突ついたりして網の中へウサギを追い込んだ もんです。
追う時のホーイホーイホイとリズムのいい掛け声 が癖になり、門口で知人を呼ぶのについホーイホイ と声をかけ、(ウサギ追い)だと咎められたことも ありました。
そのうちウサギ狩りの網は使うこともなくなり、物置の隅に放置されます。
いつまでも 丈夫なナイロンザイルと違い、役目を終えた自然素材の大網は、時を経て朽ち果てるよう に自然に返っていき、人々の思い出にだけ存在しています。

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