検地を断った庄屋

江戸時代の始め、松平大給城主、松平家乗の二男知乗(通称、伝兵衛)が本 地村の領主になったころ、本地村に原田太郎左衛門という庄屋がおらっしたそうな。
太郎左衛門さんは、戦国時代にどこかの小さな・領主だったとも言われている し、又、関ケ原の戦いの時、大阪方に味方した大名の家来だったとも言われているお人でのう。
いつの頃からか、たいそう支配的な勢力をもっておらして、本地村ばかりでなく、打越村や、 明知村まで、他人の土地を通らないでも行ける程、多くの田畑を持つ大地主さんじゃったそう な。
その上、領主の伝兵衛さんが旗本で、代々江戸暮しじゃたもんで、この庄屋さんが、 地代官として、年貢のち徴収など、諸事万端執りしきっておらしたから、 栄耀栄華も意のままじゃったろうて・・・
ところが二代目伝兵衛さんになった時、検地が行われてのう、検地とは、年貢を取り立てるのに必要 な基本台帳を作るために行うもので、新田畑については、十年くらいの間をおい て実施され、百姓に隠し田を許さない、それは厳しいものじゃたそうな。
太郎左衛門さんは、赤坂代官所の役人に検地を拒否し、新しく開墾した土地を測らせなんだそうな。
怒った役人は、太郎左衛門さんの土地や、家を没収し、本地村から追放してしまった。
その後、検地を断わった庄屋さんはどこへ行ったのか、今だにわからんということだそうな・・・

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