明治三十七年師走のできごとじゃった。
千足町字川端に住んでいた、加藤国五郎さんは逢妻女川の下川原で、義母の
おちょうさんと、大根のハザ掛けをしていた。 そうしたらお寺の方向に火が見えてのう、これは只事ではないと直感して、 国五郎さんはお寺へ、おちょうさんは自宅へ向かって、「お寺が火事じゃ!火 事じゃ!」と連呼しながら夢中で走り出していたと。 国五郎さんはお寺の本堂の南縁まで駆け寄ったが、それ以上近づくことがで きないほど、火の勢いはもの凄かった。 ![]() その日は、旧暦の十一月二十一日、知立の三弘法の命日で、宮口村の人達は そのお参りの帰りに火事騒動に出会ったんじゃと。 北風が吹いてのう、それでなくても、火事になると突風が起きるものじゃ、そん な悪条件の中、猛火をかいくぐって淳孝住職が、本尊様を抱いて、転ぶように飛 び出してきた。 その姿を見た人達は、勇気づけられて、出来るかぎり、あらんかぎりの力をだし て仏具などを外へ運び出したそうな。 間もなく、本地本郷、千足、本地新田、明知上、明知下、乙尾など近隣の村々よ り消防隊も駆けつけて、消防ポンプによる本格的な消火が始まり、火の治まった のは午後六時を少し廻っていたという。 火を見つけるのが早かったのと、大勢 の人達の懸命な消火活動と、中庭の木々が延焼を防いでくれたなど、幸いな事 が重なって、書院も、庫裡も火災から免れた。 そうして、総代を始め、信徒みんなで力を合わせ、きちんと火事場の後始末 をして、大晦日には、国五郎さん宅へ仮安置してあった本尊様を、無事に書院 へお迎えすることができたのじゃった。 村の衆はさぞ胸をなでおろしたことじゃろうて。 その後、壇信徒より本堂再建の話がでてのう。 毎夜のように会合が開かれ、三昼夜ほとんど寝ずの話合いもあったという事 寺の再建には、なにより大枚な資金が必要じゃが、当時のお百姓さんは貧し くて、資金集めは並み大抵のことじゃなかろうて。 ![]() 当時を振り返って淳孝和尚は 「あの頃、一反で五俵か、六俵の収穫しかなかったのに、その一俵のお米が、 たったの七円十四銭だった。 そのお米さえ、なかなか買い手が見つからず、人を頼んで、名古屋まで大八車で売りに行った。 ……何事も忍の一字じゃったよ」 と語っていたという。 貧しい生活をなおきり詰めて取り組んだ松元寺建立という、悲願達成を果た したのは、明治四十三年のことじゃった。 壇信徒、そして一般の人々の総力を挙げての資金集めは、総額五千四百円に も達したそうな。 現在、再建に功績あった人々は、皆他界されて一人もいないそうじゃが、二 代、三代と受け継がれている松元寺において、今もなお、春季祠堂・秋季祠堂 の折、読経の中にその人々の名前を読み上げているとのこと。 そして人は去り、時は流れても、お寺の繁栄と、かの人々の冥福を願い、朝 タに心をこめて読経がなされているという。 |